†でおきしブログ†

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区別ありきで仲良く生きていけるセカイの構築について


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☆前提条件

貴方が生きているという事は、誰かと誰かの選択の結果生まれ出でているわけで、他の人間とは区別され、選択された証左である。

貴方が何かを好きなように、他人が貴方を好きなように。
貴方が何かを嫌いなように、他人が貴方を嫌いなように。

僕らは選択し、モノを食べ、経済活動に勤しむ。
趣味や愛情や感動もまた同様に、他人と完全一致する事はなく「別のモノ」である。


互いに「別のモノ」同士なのである。


そこに軋轢が生じぬわけがなく、至極当然であり、特別仲が悪いわけでもなくても、必要性がなければ距離が離れていく「別のモノ」である。

☆集団としてのミライ

前述の「別のモノ」同士である事を前提に、僕らは合理的に集団生活を営む必要がある。

価値観も同様に「別モノ」であり、同じ人生を追体験できたとしても感じる事はまた別である。
能力も個人差があるし、欲求のレベルにも個人差があるので、無理をすると破産や事故を引き起こしてしまう。

個々人の身の丈にあった生き方を個人的にはオススメしたい。
無理しなけりゃいいのに、割とやんちゃな人もいて、けれどそういう人でなければ経営者は務まらないとも感じています。


そんなバラバラな人間たちが集団生活を送る事には「必然性」が必要だ。

その昔、団結して事を成さなければならない「必然性」が今よりもあったように思う。
今日日「産めよ増やせよ」などと政府が発信したら大バッシングであろう。
600百億円ほどかけた2017年の衆議院選挙の投票率は半分程度だ。
経済大国であった事は今は昔で、労働生産性も低く、人口減少と共にGDPもいよいよ世界で4位以下になってしまいそうな勢いだ。

十分に物資やインフラや教育レベルも上がっていると思うのだけれど、集団生活は下手くそになっているように感じています。
子供に知らない大人が注意するのも憚られる時代です。



仲良く生きていけるセカイの構築には、集団生活を営む「必然性」が必要だ。(2回目)


音楽のジャンルが多様化したように、多様な情報に晒された民衆に画一的な「必然性」というのはもはや時代錯誤なのかもしれないけれど。