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他人のココロが分かるなんてのは傲慢である

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☆他人の思考を読む事は容易い

プロフィールと、いくつかの質問の回答(サンプル)があれば、新たな質問に対する回答を予想する事は割りと容易い。仕草や表情からのパターンを予想する事もできる。

歳をとるごとに、無意識にこれらプロファイルスキルが向上していく。
そして、「他人のココロが分かる」なんて勘違いする事が有り得る。

☆それは傲慢である

他人のココロは永遠に分からない。

あくまで予想する事しかできない。世界の成り立ちを観測情報から推測する事しかできない現代科学と同様である。

☆そんな事より

むしろ、自分のココロも具体的には分からないでいる。
あらゆる事象にする「好きな理由」、「嫌いな理由」、「元気な理由」、「無気力な理由」が分かるだろうか?

分かるはずもない。
ココロの演算部はブラックボックスであり、僕ら自身も分からずにいる。ただただ「好き」というような結論だけを感じて生きている。


しかし分からなくても別に困らない。
「好き」と感じる事(bit-ON)が重要であり、そこに「理由」の必然性は概ね求められていない。仮に理由を求められたとしても、それはきっと別の意図があるように思うのだ。


掴みどころの無い感情の理由は、基本的に求められない社会構造になっている。

スタンドアローンの奇跡

他人も自分もココロのメカニズムは理解できないでいるのだけれど、人間社会は協調性をもって維持できていたり、実に多様な文化を生み出したりしている。

分からないからこそ協調性が磨かれ、アピールの手段として詩や服装や踊りといった文化が発展していったのかもしれない。


他人のココロを気にする前に、僕らはあらゆるアプローチ方法を歴史から学ぶ事ができるはずである。